1998.1.1 元マネージャー・キム・チョル部長インタビュー

「記者や放送関係者に新人を引き合わせに行くと、一瞥もくれずにテジに関する質問をするんですよ」
それもキムチョル氏ほどソテジ、イジュノ、ヤンぐんの全てに通じている人が他にいないからだ。
「最近話題のCM出演を始め、いろんな企業からの申し入れがあるため、ある日テジのオモニが私を呼んだんです。『キム部長に知ってて欲しい』とおっしゃるんですよ。でもはっきり言って今は自信がありません」
それで彼はてじBOYSに関する全資料をソテジ宅へ送った。MVのマスターテープを始め、活動中に作成した契約書と覚え書き、写真を含め、小さいトラック1台分という量だ。
しかしそれでてじBOYSとの縁が切れたわけではない。資料を渡して少し肩の荷が下りたが、未だにキムチョルという名にはてじBOYS前マネージャーという肩書きがついてまわる。

-2集から本格マネージメント
80年代に学生だった人は、明洞のマイハウスというところがどんな値打ちのあった場所か知っているだろう。キムチョルはそこのDJ出身だ。初めてマイクを握ったのは81年、そして91年にマイクを置いて有名なマネージャーであるチェ・ジニョル氏からてじBOYSのスケジュール帳を渡された。
「ジニョル兄のためでもあったけど、ジュノの頼みでもありました。ジュノとは彼がクギルグァンで踊っていた頃からの知り合いなんです」
一時は妻の希望でDJをやめて粉食屋をやったこともあった。しかし92年7月からてじBOYSの面倒を見るようになって、彼の妻は1年半の間一人暮らしをするはめになった。
「1年半の間離れて暮らしました。ジニョル兄が生活費くらいはくれると言ったけど、60万Wくらいにしかなりませんでした。実際僕がした仕事としては比較的多い方でした。事務室の中の仕事を主にしていました。
6ヶ月くらいやって、早く仕事を覚えなくてはと思いました。それで1集コンサートが終わって2集からは、誌面インタビュー関係のスケジュールを僕がとりまとめることにしました」
後にはテジBOYSに関する全てが彼の担当になった。そしてテジBOYSの最期まで苦楽を共にした。

実は90年代青少年の感性を導いた文化の異端者ソテジワアイドゥルと、愚直な外貌のキムチョルはあまり似合っていない。インタビューをしながら、こんなことは初めてだと一言言う度に玉の汗を流し、ワイシャツはボタンが1つ取れている。彼の雰囲気は愚直と素朴そのものだ。他人に騙されながらも他人を騙すことは思いつかない平凡な人。彼のこんな性格が、嘘と偽善だらけの世界からテジBOYSを見事に守ることができたのかも知れない。

-「勝手にしやがれ」
メンバーの意見が最も大切という原則で全てを進めた彼だったが、一度ソテジに声を荒げたことがあった。全てが終わって別れるときに書いて渡した「勝手にしろ」という言葉を言ったのだ。
「一度スケジュール問題で喧嘩をしたことがありました。93年か94年か、正確には思い出せないけどSBSの公開放送番組が入ったんです。12月24日だったからメンバーは初め嫌だと拒絶したんです。でも一体どうしようもないでしょう。それでテジにもうどうしようもないから、一度だけやってくれと頼みました。それだけ頼んでもテジはできないと断固として言いました。既に番組予告まで流れている状況だったんですよ。腹が立ってもう一度電話して、「勝手に視野がれ!(チャルモッコチャルサララ)」と一言だけ言いました。そして酒を飲みました。するとテジから連絡が来たんです。テジも一言だけ、「兄、ごめん」。スケジュール問題で言い争ったのはそれが最初で最後でした。
ところでイベントに参加したテジが後で僕に礼を言ったんですよ。その日は気温が零下16度だったんですが、朝から待っていたファンが夜遅くまでいたんです。そして食事をしました。もちろん僕のおごりですが。

-100万Wの携帯電話を3万Wで買ったテジ
金銭的にはソテジはとてもケチだという噂がある。持ち歩く金もせいぜい10万Wだ。
「テジはお金に疎かったんですよ。17才の時日本に行くのに、韓国からお金を持っていく必要性がなかったんです(???)。
90年代中盤でも携帯電話は100万W以上したでしょう?テジがジニョル兄の持ってたのをほしがったみたいなんです。ある日テジがジニョル兄に「それいくら?僕に売って」と言うのでジニョル兄は冗談で3万Wだと言ったら、本当に3万W渡したんですよ。それでジニョル兄は3万W受け取って、携帯を売ってあげたことにしました。たぶんテジは携帯を最も安く買った人でしょうね。
音楽的なことでは経済感覚もあったけど、他のことにはちょっと無神経でした。新しく建てたビルにスタジオ工事しながら音楽設備の価格をあまりに削って、周りを驚かせたりしました。
でもラジコンカーにはお金を惜しみませんでした。作曲がうまくいかないときは河川敷で飛行機やヘリコプターを飛ばしてたんですが、大変高かったんですよ。ヘリ1台が500万W以上する事もありました。

-両親にも秘密にした引退時期
てじBOYSはいつから去るつもりでいたのだろうか?
「2集で終えようとしてました。4集COMEBACKHOMEのタイトルもこの影響が大きかった。実際3集では、それまでてじBOYSを通して仕事してきた人に対する経済的な配慮もしました。でも歌は大衆性よりはテジが音楽ファンに本当に聴かせたかった音楽をつめこみました。結局4集まで出てしまいました。
勿論メンバーも同じでした。ジュノは個人的に休みたいという気持ちをよくほのめかし、ヤンぐんもやはり新しい飛躍を夢見ていました。
両親にまで秘密にしてました。元々は95年2月くらいに引退宣言しようとしましたが、どんどん先に延びたんですよ。当時てじBOYSに少しでも関心のあった人なら引退に対する思いを感じたでしょう。2月第2週から一切スケジュールを入れませんでしたからね」

スターは舞台を去るのも難しい。引退会見を開くため取っておいたホテルが全て予約を取り消しにしてしまった。それで結局ホテルを転々としながら記者会見会場を探すしかなかった。
「ソウルにあるホテルは全てあたってみました。しかしソテジの名を出しても首を振るんです。最後に見つけたところがユリム会館でした。50才くらいの方が総務にいたのでお願いしました。何と言ってもソテジという名を出すとまた断られそうで、言いませんでした。
13万Wを出して契約したのですが、記者会見当日の96年1月31日反対が出たんですよ。そこにいるおじいさん達が絶対ダメだと言うんです。何とか記者会見を開いて無事に終えました。が、そこを出たら小さな事故が起きました。会社員が一人僕らの乗った自動車の下に入ったんです。頭がふらっとしました。こんな事故で幕を閉じるとは、という思いが浮かんできました。しかし幸いにもすり傷だけですみ、ほっとしました。
金海空港を通ってグアムへ出る予定でしたが、前日降った雪で計画を変えねばなりませんでした。蚕室船着場を通って金浦空港へ方向を変えました。しかしここでてじBOYSメンバーたちは腕を痛めるはめになりました。
空港側の配慮で貴賓室を利用しました。ところが空港管理公団の人たち、そこに常駐している機関の人たちが、寄ってたかっていちいちサインをさせるんですよ。千枚ほどもしてあげたんです。テジは腕が痛くて鞄をちゃんと持てないほどでした。
そして彼らは去ってそれで終わりでした」

ここまで話したキムチョル氏の顔に名残惜しさが見えた。しかしてじBOYSに関して一番よく知っている彼に、本当に訊きたかった一言。ソテジはいつ帰ってくるのか?
しかし彼は断固としてこう言う。「初めは帰らないのだと確信をしました。そんな話もしました。でも最近は正直言ってわかりません。政界を引退していた DJ(金大中)も帰ってきたし、TJ(ソテジ)だって帰ってこない法はないでしょう?でも僕が今育てている素晴らしい新人歌手パク・キヨンに対しては、どうして何も訊かないんですか?」

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